前の創作TIPSで、大事なことは、
1 主人公になりきって書く
2 他人の目になって読む
3 主人公が自分に近いときは、客観性を保つ
と書きました。
なかでも1の主人公になりきるというのは一番大事です。私もいつも心しているのですが、でもともするとやっぱりまあここはいいかな、と気を緩めたりして、それが最終的には問題になって失敗し、反省したりしています。
でも自分も失敗することがあるからといって、立場によってはやっぱり言わなければいけないことは言わなければならないので、いくつか前の『季節風』の投稿作品評には、私はこんなことも書きました。これは評の対象となる特定の方だけでなく、自分も含めあらゆる人にあてはまるものだと思います。
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さて、なりきるとどういうことになるか。
主体の行く末が作者に、場合によっては歴史もののように読者にもわかっているときでさえ、その文章の時点では、主体はそのことを知らない、ということを作者は強く意識しながら書かなければならないことになる。
作者は常に「知っているが知らない」という二重構造の葛藤をかかえるわけだ。
しかし、そうやって書いてはじめて、今そこでその人が生きている、という臨場感が生まれるのだと思う。
それがなかったら、書かれたものは小説ではなく、記録にすぎない。
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主人公になりきる、というのはリアリズムだとかなりイメージできると思いますが、歴史ものだと、明らかにその人は自分とは違うとわかっているので抵抗があると思います。それにいつ生まれて、一番大事なことはいつ死んだ、までわかっているのでよけいに難しい。
でも小説はなりきらなきゃならないんです。必須です。
ということは明日死ぬとわかっていても、主人公は知らない。作者は知っていても主人公になりきるためには、知らないふりをしなきゃならないということになります。
でも物語の作者としては、ちゃんと着地点を考えていなければ書けません。
それが「知っているが知らない」という二重構造の葛藤、ということの意味です。
歴史を調べていると、たとえばこういう原因でこの争いはおき、こういう要因があったからこういう決着になった、と学術的に書いてあることがあります。
でも、それは主人公になりきるためには、不要のことです。
主人公は知りません。
あくまで後世の人が評価したのがその記述です。
「竪穴式住居」と書いてあっても、その時代それが普通なら、そんな言葉は使っていません。「ふつうの家」です。
大事なのは、その時代に生きたその人たちが、日々どうしていたか。それを知ることなんですが、これがなかなかわかりません。
というのも、人は当たり前のことは記述に残さないからです。たとえば
どこに行って、なにをした。
これは書きます。
でもどんな服で、どのような手段で行ったか、ということは書いてないことが多いのです。
でも主人公は知っています。でも作者は知りません。
主人公は自分がいつ死ぬか知りません。でも作者は知っています。
そして読者も知っています。
しかし、その時代に当然なことでも当然としてスルーしてしまっては読者にはなんのことかわかりません。そこは作者に立ちもどって、適時今のひとにわかるように解説しなければなりません。それもいきなりナレーションが入るのではなく、主人公から見える範囲で、人の言葉や、観察などで。
ここに歴史ものの一番の難しさがあります。
どうしたらいいか。
できれば日々の記録のようなものを極力調べる。
肌感覚を覚えるために、同時代の、または近い時代のあらゆる資料を調べてなにが常識かを知る。
同じ場所に行ってみる。
できれば自動車ではなく、歩き。できれば体験、例えば馬などに乗ってみる。大きさを体で体得する。
などなどの行為が必要になります。
定石はありませんし、わたしももちろん途上ですが、投稿される際には、頭に置かれるとなにか今までと違うかもしれません、ということしか言えませんが。一応TIPSとして書いておきます。
ああ、難しい。