書名:意識は傍観者である
著者名:デイヴィッド・イーグルマン
出版社:早川書房
好きな場所:では、ギブソンの「本当の」性格はどちらなのか? ユダヤ人を差別する意見をどなったときの彼なのか? それとも、自責と恥辱の念に駆られ、「私はユダヤ人社会の助けを求めている」と発表したときの彼なのか?
人間には本当の顔とうその顔があるものだという考えを好む人が多いーーつまり、人には一つの純粋な目的があって、残りは飾りか口実かごまかしだというのだ。直感的にはそうだが、この考えには欠けているものがある。脳を研究すると、人間性に対するもっと繊細な見方が必要になる。本章で見ていくように、私たちはたくさんの神経細胞の小集団でできている。ホイットマンが言うように「なかには大勢がいる」のだ。ギブソンを中傷する人たちは彼が本当は反ユダヤ主義だと主張し続け、彼の擁護者はそうでないと主張するが、どちらも自分自身の偏見を維持するために半端なことを主張しているのかもしれない。脳には差別主義の部分と非差別主義の部分の両方はありえないと考える理由があるのだろうか?
所在ページ:p142
ひとこと:この本のこの部分を読んだとき、目からまさにうろこが落ちるような気がしたものです。
今、新コロナウイルス禍でのヨーロッパにおける東洋人の扱われ方と言われるもの、それから日本における中国人の扱い方と言われるものを考えてみても、「あーやっぱり差別はあったんだ」「危機に際して化けの皮がはがれたんだ」というとらえ方をしがちです。そしてそれに対する反論は、そうでない「いい人もいるんだ」という図式です。
でもそもそも、あった、なかった、じゃないんだと考えれば、ひどく納得がいくような気がします。人間ていうのはそういうもので、どっちも本当なんですね。確かに小さいときから体に刷り込まれたものは、消えないし、例えばおかずの味付けなんかに始まって、儀式のやり方まで、うちはこうするというものがあって「違う」とつっぱらかる。でもその一方で、いや、違っていてもいいんだ(またはしかたない)、とわかってもいる。まさに「なかには大勢がいる」のです。
で、私もそうですが、人は、自分の無意識の言動にちょっとでも差別的なものが現れたら、動揺します。でもそれをひた隠して「私は差別なんてしない、あの人はするけど」と他人を非難しがちです。しかし、これを読むとそれは無駄だとわかります。
大事なのは人間を改造することではなく、たとえそういう気持ちが心の一部にあったとしても、「やってはいけないことがある」「言ってはいけないことがある」ということを広くコンセンサスにすることなんじゃないのかなと。そしていけないことをたとえしてしまったとしても、修正することじゃないのかと。
今こそ、この本おすすめです。長いけど(爆)