2012年12月22日土曜日

児童文学と「アイスエイジ」ネタバレあり

映画「アイスエイジ」を見ました。たまたまDVDを見る機会があって。この秋以降、そういう人もなぜか多いかも(笑)

小さな子どもが家にいたころならきっと封切りの時に見に行ってたのではないかと思いますが、最近はそういう機会もなく、わざわざ借りてみるほどのこともなく、というわけで、知りませんでした。シリーズ4作まででているのですね。見たのは一作目だけですが。

何か書くという作業を経験すると、前に見ていたであろうものとは、ちょっと違う見方になるのだなあと思いました。とにかく児童文学には、同じ子どもが見ている映画を見ることは必須なんでしょうが、なかなか長時間拘束される映画には手がでません。ちょうど勉強になってよかったと思います。

これ以降は、ネタバレになるかもしれませんので一応、何行かあけて(笑)





まず構造からいうと、これはアメリカ伝統の西部劇です。
家族を狩られた者と、狩った者との確執。復讐しようとする者が、相手方の無垢な子との交流によって、それをやめる。助ける。

伝統的な西部劇の構造によれば、狩ったのは白人、狩られたのはネイティブ・アメリカンです。
でも、それを現代でリアルにやってしまうと、どうしても旧来の白人優位の形になりがちです。ネイティブ・アメリカンが復讐をあきらめ、白人の子を救うというのでは、恨みよりヒューマニティが勝ったという結末にすぎないと言い張ったとしても、白人による新大陸の侵略と虐殺という歴史を肯定する印象を与え、非難されかねない。たとえ歴史的事実であっても、現代においてあらたに書いて提示する以上、歴史のままというわけにはゆきません。

それを、この映画は狩られるほうを動物にすることによって、うまく回避していると思いました。
さらに念をおすように狩るほうをネイティブ・アメリカンのイメージをほうふつとさせる風貌の原始人にしています。これによって、侵略の話とは違う次元だということを明らかにしているわけです。

でも、私なんかは、伝統的なマッチョ西部劇を見ている世代ですので(私が見たのよりさらに古いマッチョな西部劇ではネイティブ・アメリカンはただの敵で、その時点で西部劇も変化してはいたのですが)、構造は同じだとわかるのですが、他意はなく、こういうストーリーが国民的に落ち着くということなんでしょう。

こういう手法は、童話の世界でもよくつかわれると思います。ですが、書いてみればすぐわかりますが、そのときどうしたって二つの問題が生じます。

一つは、リアリティの問題。たとえば、マンモスとナマケモノが話せるかということにはじまって、寿命の問題から、活動時間の問題から、餌の問題から気にしはじめるときりがありません。

もう一つは、本物の人間を出したとき、それとの関係をどうつけるか、ということです。動物側と人間側を交流させるか、交流させるとしてもそれとしゃべらせるかしゃべらせないか、つまり今まで動物側でしゃべっていた言語が、人間に通じるのかどうなのか。

前者は、とにかくリアリティをふきとばさなければなりません。ふきとばすためには半端でないぐらいのパワーのある別の物語上のなにかをもってこないことには、解決できないと思います。それが、大変(泣)。アイスエイジでは、コメディタッチで氷河期というものを扱うことで、これは現実ではないと知らせて、解決していました。

後者は、リアリティの問題のように見えますが、ちょっと違うと私は思います。なぜなら、前者が解決されても後者は自動的に解決されない。人間と対峙したとたんに、動物はある種の人間を仮託したものであったはずなのに、それがぜんぶ嘘であったことになってしまい、今までの世界が崩れる(しらける)からだと思います。ここには別のテクをもってこないとだめです。しゃべれない、通じないというのがいちばん無難な方法ですが、そうもゆかない場合もある。

ところで、しゃべるかしゃべらないかですが、書き手の人はよく「しゃべらせるな」といいます。最初は私は言われていることがわからなかったのですが、最近「ああこういう意味だったのか」と思うようになりました。先輩がたは偉大です。同じことが、大人の世界と子どもの世界のかき分けにも言えるような気がします。

でも、ここのテクはすごく難しいなあと思います。もちろん前者のパワーも難しいのですけれど。いろいろ失敗してなんとかするしかありません。

アイスエイジですが、後者の点に関しては、さすがにしゃべってはいませんが、ちょっと失敗っぽいなと思いました。特に首かざりの件です。でもよくできた映画でした。おもしろかったです。