2011年8月10日水曜日

坊っちゃん紀行

松山に行ってきました。実家が九州なので、帰りがけにフェリーで寄るにはちょうどいいです。
「坊っちゃん」の仕事をやったあとなので、当然のことながら見たいところがたくさん。

コンパクトデジカメもやっと買ったので、練習をしながらとってみました。

坊っちゃんの筋の進行と共に紀行をお送りします。ページと引用は、当然ながら(笑)みらい文庫「坊っちゃん」

●松山上陸
「ぶうといっておれの乗った汽船がとまると、小舟が岸を離れて、こちらへこぎよせてきた」p32
(ちなみに原文には「おれの乗った」はなく「小舟」でなく「艀」です。このようにみらい文庫版は現代化のためと、子どもにわかりやすようにするため、原文と違うところがありますが、それについてはいちいち書かないで以下省略します)

私のフェリーは朝の五時に、松山観光港につきました。ターナー島でも見えないかなあと、一人デッキに出て、うろうろしてみましたが、真っ暗。この島は、ターナー島じゃないと思います。

漱石がいたころは、観光港より南にある三津浜の港を使っており、そこから「マッチ箱のような」電車にのって、市内まで行ったようです。

●山城屋
「車引きは、人力車を威勢よく『山城屋』というところに横づけにした」p36

たぶん松山市駅あたりから人力車にのった坊っちゃんは、お城の南がわあたりにある中学校に寄り、それから数ブロックぐらい南のこの旅館(きどや旅館)に泊まります。で、階段下の部屋に押し込められて怒っちゃう。


●松山中学校
「四つ角を二、三回曲がったら、すぐ学校の門の前に出た」p40
数ブロック先ですもんね。
今はでっかい携帯用発信塔を頭にいだいたNTTDocomoのビルでした。

●団子
「住田というところへ行って団子を食った」p70
これは本当はお寺の山門の内側に遊郭があって、そこの入口の団子がうまいというので、入ったところ「遊郭の団子うまいうまい」と黒板に書かれたのですね。でも、みらい文庫では遊郭のくだりは削ってあります。でもこの遊郭のあとどこかなあと、探した私。道後温泉の西側「宝厳寺」という一遍上人生誕の寺の門前が、上人坂というもので、そこがこの「松ガ枝町」という花街だったということです。行ってみると、古いスナックが若干あるけれど、ほとんど更地になっており、中には古い家も一、二残っていました。


●住田の温泉
「三階建ての新築で、上等は浴衣をかして、背中を流すサービスをつけて、八銭ですむ。そのうえ、女が台へ茶をのせて出す。おれはいつでも上等へ入った」p72


私も上等へ入ってみました(笑)。着替えは個室で、浴衣とお茶と坊っちゃん団子がついています。毎日はやっぱりムリ、お金がもちませんです。

●下宿その1
「町はずれの丘の中腹にある家で、とても閑静だ。主人は骨董を売買する『いか銀』という男だ」

漱石の最初の下宿、愛松亭というところは「いか銀」のモデルらしいですが、そのあとでこーんな立派な洋館が立って、これはこれでまた名所なのですが、下宿のほうはありません。


●下宿その2
「おれが縁側で清の手紙をひらつかせながら、考えこんでいると、しきりの襖をあけて、萩野のおばあさんが晩飯を持ってきた」p159


漱石の次の下宿だったところは、二階建ての離れで「愚陀仏庵」といって、復元されて、俳句の好きな人にはまさにメッカでした。なぜならば、一階に子規が同居していたことがあるからです。たった五十数日のことだったらしいですが、毎晩句会が開かれ、この地だけでなく、日本の近代俳句のまさにモメンタムとなったということでした。大事なことが起きるには期間じゃないのね。場所は、二番町というさっきの洋館の2ブロックほど南らしいです。もっともこの建物が復元された場所は洋館の北側でした。でした、と過去形なのはなぜかというと、土砂崩れで倒壊したそうです。ただ、同じ建物の復元が、一階部分だけですが、子規博物館の中にあり、それがこの写真。縁側で巻紙をひらつかせたいような家。

●はりこみ
「今夜七時半ごろ、この前の『小鈴』という芸者が『角屋』へ入った」p244
坊っちゃんと山嵐は『枡屋』の二階を借りて『角屋』を見張るのですが、それがどこかなあと、探した私。ちゃんと教えてくださるかたがおられて、『枡屋』はこの「かど半」、『角屋』はこの向かいのローソンのところにあった旅館がモデルだという。




というわけで、探偵の旅、おしまい!