2016年7月12日火曜日

「レイさんといた夏」安田夏菜

書名:レイさんといた夏
著者名:安田夏菜
出版社:講談社
好きな場所:今、はっきりと気がついたわ。あたしはこの人らで、この人らがあたしやねん。
所在ページ:p222
ひとこと:季節風には毎年秋の大会があります。各分科会ごとに合評をします。全部で10ぐらいの分科会があるのですが、それぞれの分科会は、張り合っていないっちゃあ張り合っていないのですが、張り合っているっちゃあ張り合っています。なにをポイントにするかといえば、その分科会の合評に出された作品が世に出るかどうか。もちろん世に出なくても、いい作品はいい作品にまちがいないんですが、「○○分科会から出た本」というのはそのときの参加者にとっては格別な思いのあるもので、まるで自分が書いた本のように、自慢に思い、応援したくなるものなのです。

というわけで出ました!
『レイさんといた夏』安田夏菜(講談社)は、昨年の季節風大会「ファンタジー分科会」の参加作品です。ご出版おめでとうございます!!
私がファンタジー分科会にかかわらせていただいてから、昨年で三回目。それまでに参加作品で出版されたのは、同じ安田夏菜さんの『ケロニャンヌ』いらい二作目です。え、よーするに安田夏菜さんという優秀な方が分科会に続けてご参加くださっただけじゃん、という突っ込みもあると思いますが、ぶっちゃけそのとおりです。でもでもでも、分科会参加者には、とってもうれしいできごとであることにはまちがいありません。あの、あの、あの、あの生原稿のお作品が本になったなんて!!! 本当におめでとうございます。


さて、このレイさんといた夏というご本ですが、どんなお話かというと、阪神淡路大震災のことを題材にした本です。私は阪神淡路大震災のときは関西にいませんでしたが、その数年前まで関西に住んでおり、その場所もこの本にある甲山のふもとで、ここにとり上げられている地滑りのおきた場所は、娘がかよっていた小学校の校区でした。そして娘の同級生の中からお一人がこのお話のように土に埋まって亡くなったのでした。それはともあれ。

これはまさに地震のお話なのですが、それよりなによりと私は思います。地震を超えて、人は何のために生きるのか、どうして生きてゆくのかに肉薄した物語だと思います。

ヒッキーの子のところに突然現れたヤンキーの子。実は幽霊で生前の記憶をなくしており、自分がだれかわからなければ成仏出来ないと言います。しかたなくヒッキーの子は、ヤンキーの子の自分探しを手伝ってやります。その方法は、ヤンキーの子が断片的に思い出した話から肖像を描くこと。佐藤真紀子さんのすばらしい挿絵が、真正面から主人公が描いた絵を再現します。ほんとうにすばらしい。一人一人がこういう人なんだなということが文章からわかることが、とりもなおさず「人を描く」ということなんだなと思います。

ヤンキーの子の話を聞くうちに、ヒッキーの子にわかってくるある事実。それは、震災のことでもあり、自分に関係することでもあったのです。ですが、それを告げる前に、ヤンキーのレイさんは引用のことを言います。まさに、まさに、人生というのはそういうものではないでしょうか。私が安田さんのお作品が大好きなのはそういう哲学が入っていることで、ケロニャンヌもそうでした。

ネタバレになるから言いませんが、でも、年をとり、父も母も他界し、しみじみ思うのは、自分は一人進みひとりでにで作られたのではない、自分に関わった人が作ったと。そのかかわりはわずかなことであっても、本当に引用のようなことだと思うのです。

そしてヒッキーの子はヤンキーの子と自分との共通点を知ります。それこそが、自分を悩ませていたもの。「あんたも、自分が誰か、探しや」と言ってヤンキーのレイさんは消えます。それはいわゆる自分探しという意味ではなく、自分をつくっただれかを探す、ということなのだと私は思いました。いろいろな人がいて、自分がいる。それはまさにその人が自分なのです。人が人にかかわること。それは人をつくることでもあるのです。だから人は人にかかわらないでは生きて行けないのです。

ほんとうにすばらしい物語。出版に万歳です!