2015年8月17日月曜日

「きみ江さん ハンセン病を生きて」片野田斉

書名: きみ江さん ハンセン病を生きて
著者名:片野田斉
出版社:偕成社
好きな場所:『らい病』のいちばん危険なときに、家族といっしょに暮らし、赤ん坊もいるのに、だれもこのような症状が出ていないなら、あえて病院に行くことはない。もし病院に行く気があれば、ぼくのいた多摩全生園に紹介状を書きますが、行きますか
所在ページ: p60
ひとこと:ハンセン病の元患者さん、山内きみ江さんという方を何年も追いかけて写真を撮ってこられた写真家さんの書かれたノンフィクションです。

 タイトルにもなっているこのノンフィクションの主人公、「きみ江さん」は、昔はらい病という名称だった、ハンセン病にかかります。幼いころに患者と濃密な接触がある場合に、それも栄養状態などの悪い時にだけ感染する病気で、伝染力は弱く、感染したとしても接する人に、特に大人にうつすことはないのですが、昔はそのことがよく知られていませんでした。症状が出ると、神経をやられ顔や四肢などに障害が残ります。
 きみ江さんは、小学四、五年生ぐらいに症状が出て、幼児性リウマチと診断されます。二十一歳になったときに、専門の医師に診てもらうと、引用のようなことを言われます。
 きみ江さんは、もしハンセン病ならば、家族が周囲からつきあいを断たれ、親類縁者に顔向けができなくなるということを知っていたので、保健所だけには言わないでと頼んで、自ら多摩全生園に行くことに決めます。全生園は、国立のハンセン病専門の療養所で、一生隔離することが前提となっている場所で、退所は不可能なところでした……。

 引用のお医者さんの言葉が深いです。この方は、ハンセン病の伝染力が弱いこと、また伝染の可能性のない場合には療養所への隔離が必要ないこと、いったんハンセン病と診断されてしまえばもう退所できないことを知りつくし、場合によってはハンセン病と診断しないつもりで、こうおっしゃったのだと思います。
 実際、きみ江さんは、入所後精密検査の結果「無菌」と診断されたのでした。
 しかし、家に戻るわけにはゆきません。それは、「らい予防法」という法律のためでした。

 のちに2001年熊本地方裁判所は、らい予防法によるこの隔離が、特に1960年、特効薬プロミンによる完治が明らかになって以降は、違憲であったということを認めます。最高裁まで争うことなく、国は「らい予防法の廃止に関する法律」を作って療養所からの正式な退所を認め、60年以降の隔離について賠償金を支払います。
 60年といえば、きみ江さんが入所したたったの三年後なのでした。

 なぜ、きみ江さんがこの時期に入所しなければならなかったのか、なぜ戻れなかったのか、科学では、隔離が不要なことがわかっていたのになぜらい予防法は40年も存続しつづけたのか。
 この本を読むと、きみ江さんの人生を見ながら考えさせられます。

 怠慢、という人もいると思いますが、私は偏見、というのがこの答えではないかと思いました。科学的には問題のないことであっても、人は恐怖によりマージンを取ろうとします。それが、合理的な社会の判断を拒むのです。昔のことと言っていられるでしょうか。

 写真はきみ江さんのご主人が亡くなるときのシーンまであります。ちょっとやそっとの取材ではできないことです。よほど親しくなり、信頼を得なければできないことだと思います。その著者さんがごらんになったきみ江さんの負けん気な性格と、不屈の人生がみごとに描かれています。